藤田信雄のアメリカ爆撃の真相とその後は?呼び出しの理由や太平洋戦争での任務とは【アンビリーバボー】

どうもみなさんこんにちは!

yoshikiです。

もう少しで、日本の終戦記念日ですね…

そんなこんな今回は、太平洋戦争にて素晴らしい勇気を見せたものの

日本では日の目を浴びることのなかった一人の軍人についてのご紹介です。

2018年8月9日(木曜日)19:57放送開始の『奇跡体験アンビリーバボー』にて

藤田信雄さんの太平洋戦争でのエピソードとその後について特集されます。

 

この方、現在はもう亡くなられていますが

1942年の太平洋戦争時にたった一人でアメリカ本土を爆撃するという

極秘任務を成し遂げたとても勇気ある軍人の方です。

しかし、訳あって日本ではその事実が広まる頃はありませんでしたが

なぜかアメリカでは藤田信雄さんの名前が一気に知れ渡ることに…

というわけで今回は、この藤田信雄さんについてご紹介します。

奇跡体験!アンビリーバボー 番組出演者情報【2018年8月9日放送分】

ストーリーテラー
ビートたけし

スタジオメンバー
剛力彩芽  バナナマン(設楽統 日村勇紀)

藤田信雄のwiki的プロフィールと経歴紹介

名前 :藤田信雄(ふじたのぶお)
誕生日:1911年10月
年齢 :85歳没

藤田信雄さんは帝国海軍の軍人で最終階級は飛行兵曹長(中尉)

1932年に、日本帝国海軍に入隊し、翌年にはパイロットになります。

 

真珠湾攻撃の際には、伊25に乗船。

他3隻の潜水艦とともにオアフ島の200キロ北のラインを警戒。

南太平洋における任務の際には

オーストリアのシドニー、メルボルン、ホバート

そしてニュージーランドのウェリントン、オークランドの港の偵察任務、

メルボルンでは、フライトの任務に着任。

太平洋岸北西部における任務では、侵略に備えた偵察などを行っています。

藤田信雄の太平洋戦争における単機でのアメリカ爆撃

そして、藤田信雄さんの最大の任務は1942年の太平洋戦争にあります。

当時、偵察機のパイロットとして活躍していた藤田信雄さんは

その操縦の技量を買われ軍令部に呼び出されることとなります。

そして、そこで言い渡された任務は何とアメリカ合衆国のオ

レゴン州ブルッキングズ市に近い太平洋岸北西部の

山中を単独で焼夷弾により爆撃し、山火事を発生させるというもの。

任務の目的としては、アメリカ海軍の資源を奪い去るという目的での山中爆撃。

しかし、当時アメリカ本土の爆撃の例はなく、さらに単独での任務。

 

藤田信雄さんも、生還する自身はなかったようで家族への遺言も書いていたようです。

そして、任務を遂行。

2個の焼夷弾を積み、オレゴン州上空へと来た藤田さんは焼夷弾を投下。

一つはオレゴン州のエミリー山脈のホイーラーリッジに落下。

もう一つの焼夷弾の落下地点は不明。

 

落下が確認できた焼夷弾は、小規模の火災を発生させたものの

すぐにアメリカの林野部により鎮火されてしまった上に

任務遂行前夜、アメリカの天候は雨だったために森林は湿っており

火災の広がりも非常に小規模でアメリカ軍への被害はほとんどありませんでした。

結果、史上初のアメリカ本土単機爆撃を最高させたものの

アメリカへ与えた被害が小規模だったことから上官に叱責され

任務自体が極秘だったため、その勇姿も語られずじまいでした。

 

今と昔では生きて来た世界が全く違いますから一言では語れませんが

単身でアメリカへの爆撃、命令されたら絶対に任務を遂行しなければ

いけないとはわかっていても、絶対に死を覚悟するほどの危険な任務です。

 

爆撃の結果がどうであれ、単機で史上初のアメリカ本土への

爆撃を遂行したという事実は確かですので今後もこの藤田信雄さんの

勇気ある行動は語り注がれるでしょう。

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戦後のアメリカからの賞賛の呼び出し【アンビリーバボー】

その後、様々な任務に就くも無事に終戦を迎え

藤田信雄さんは地元の茨城県に戻り工場勤めをしていました。

 

そんな中、1962年に池田勇人首相と太平正義内閣官房長官に呼び出され面会。

その内容は、アメリカ政府が藤田信雄を探しており、アメリカに来て欲しいという旨。

また、日本政府は日米の関係への影響を考慮し藤田の渡米に関しては

関知せず見捨てる形で放棄。

 

単身での爆撃に関して、戦犯として裁かれるかもしれないと悟った

藤田信雄さんは日本刀を忍ばせ、決死の覚悟で渡米。

しかし、そこで藤田信雄さんが浴びたのはアメリカからの賞賛の拍手。

 

アメリカは、単機で自国を爆撃したかつての英雄である藤田さんを

フェスティバルの主賓をして招待していたんです。

アメリカで歓迎を受け、藤田さんは自らの不明を恥じ

懐に忍ばせていた日本刀を友好の印にブルッキングス市に贈呈。

それからはアメリカと藤田さんの友好は続き

1985年にはブルッキングス市の3名の女性学生を日本に招待。

1990年、1992年、1995年には再びブルッキングス市を訪れ

1992年にはかつて藤田さんが空爆した地域への植林も行なっています。

 

まさかのアメリカからの呼び出しは

かつての敵の勇気ある行動への賞賛だったんですね。

今日の敵は明日の友とはよく言ったものです…

 

藤田さんの勇気ある単身でのアメリカ本土爆撃は

その実際の成果こそ大きなものではありませんでしたが

のちの米国と日本の友好を大きく深めることに貢献したんですね。

藤田信雄の現在は?【アンビリーバボー】

藤田さんは、アメリカからの招待の後

数々の渡米、日米の友好のために貢献しましたが

1997年9月30日85歳でこの世を去りました。

 

日本国内では、藤田さんの死は語られなかったものの

ニューヨークタイムズ紙では

『米国本土に爆弾を落とした唯一の敵、藤田信雄、85歳で死す』と

大々的に報じられました。

アメリカは、本当に藤田さんの勇姿を讃えていたんですね。

また、死去の数日前には藤田信雄さんはブルッキングズ市の名誉市民にもなっています。

まとめ

今回はアンビリーバボーで紹介される藤田信雄さんについて

ご紹介させていただきました。

 

単身でアメリカを爆撃した勇気。

そして、アメリカの国を超えた敵国軍人への賞賛。

我々もぜひ見習いたいものです…

 

もうすぐ終戦記念日ですので、少しでも藤田信雄さんの残した功績を

知ってくれる方が増えると嬉しいですね。

 

それでは。